いにしえの吹奏楽部の写真を発見!
この写真はおそらく1984年から85年にかけてのもので、コルベ講堂2階で吹いている、
それ以降の退部者が写っている、そろいのトレーナーを着ているところから、1984年度
卒業式ではないかと思われる。その頃の今では信じられないエピソードを紹介しようと思う。
1、クラリネットは全員がプラスチックである。木管のをまだ見たことがなくクラリネットと
言えばこれだと信じていた。
2、学校の楽器のホルンに直接イニシャルを彫りこんだ部員がいた。
3、チューニングを知らなかった。したことがなかった。
4、1年のほとんどが休みだった。もちろんコンクールも出ていなかった。
県や市への登録もしていない。
5、出席率が極めて悪く、10回連続で出席した部員に表彰状をあげていた。
しかし本番3日前からは誰も休まなかった。
6、練習以外での結束力は高かった。着ているトレーナーも生徒たちでデザインして作った。
竣工して一年経っていない講堂2階。
コンクリートが乾いていなかったので音響は最悪だった。
まあでもそれなりに楽しく、私も駆け出しの頃で無我夢中だったと思う。しかし、誰も指揮を見ていない・・・
吹奏楽部OB列伝
森さわ 武士(もりさわたけし)
合宿で水風船大会を企画し、びしょびしょになった部員たちと
OB全員を風呂に入れた。夏の合宿ならでは!
真中で笑っているのが森さわ武士君
「OB列伝」と名前を変えた今、トップに来る人はこの人しかいないであろう。昭和59年仁川学院
高等学校入学後、吹奏楽部に所属、部長を勤めるなど貢献度は生徒の頃から高く、また卒業
してからも彼を中心に他のOB会にはない独特の雰囲気の中心人物として現在に至っている。
このように書くと親分肌のように思われがちだが、決して「俺について来い」タイプではなく、
彼の発想の豊かさ、行動の早さ、人柄にみんなはただただ感動し、賛同しているのである。
卒業後10年以上も経ち、社会的地位の高いところにいながらも、いつまでも仁川学院
吹奏楽部を忘れず、気にかけてくれ、支援を惜しまない彼をOB、部員たちは敬愛して
いるのである。
タバコを吸うまねをして周りを驚かそうとしている若き日の森さわ君
彼の子供のような心、それと相反するすべてを達観した見識と行動。彼の人格は
吹奏楽部の今の自由な雰囲気を作ったと言える。
左端が森さわ君、吹奏楽部のゆかいな行事はすべて彼の発案である。
吹奏楽部OB列伝
土屋 啓二(つちやけいじ)
コンクールへの再挑戦で吹奏楽部は活動を再開した。それまでは人数が足りず、コンクールどころではなかったのである。吹奏楽コンクールの歴史を語るとき、忘れてはならないのが始めに「コンクールに出よう!」といった土屋啓二君のである。(1985年入部)彼は名門宝塚市立南ひばり中学校で活躍してきたフルーティストだったが、進学した当時の仁川学院高等学校吹奏楽部の現状を目の当たりにして、部員に目標を持たせるため、そして他の学校の演奏を聞いてレベルを上げるためにも是非、コンクールに出場しなければならない、と考えたのである。いろんな講習会や演奏会に部員を誘ってもなかなか乗ってこなかったのも大きな理由の一つだった。そこで野球の応援と文化祭、そして卒業式などの学校行事だけにとどまっていた吹奏楽部の部員たちの多くの反対を押し切り、顧問を説得して連盟に登録し、コンクールの申し込みをして1986年7月、ついに仁川学院吹奏楽部を高等学校B部門に登場させたのであった。結果は西阪神地区大会銅賞だったが、その直後に早くも翌年へ向けての目標をぶち上げ、自分が顧問とともに指導する立場となり、音合わせのしかた、練習のしかたなどを整備した。教則本や楽器など も顧問と相談してそろえていった。なかなか付いてこない部員たちを引っ張り、ほとんど彼一人が全パートの練習に付き合った。「毎日練習すること」「腹式呼吸をすること」「楽譜の通りに演奏すること」の金賞をとるための3つの条件は永く部室や音楽室に掲示され震災で校舎が倒壊するまで後輩たちに伝えられていった。そして、彼が卒業してからその教えは見事に実を結んだ。まさに彼の縦横無尽の活躍は、「仁川学院吹奏楽部復興の祖」といって差し支えないだろう。