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仁川学院吹奏楽部のホームページは仁川学院吹奏楽部個人サイトとして1999年に学校の認可により公式に設立され、266,886アクセス数を持って2012年3月24日にWordpress方式に移行し、現在にいたっています。今後とも「仁川学院吹奏楽部の今」を素早い更新でお届けしていきたいと思います。よろしくお願いいたします!(顧問)

全日本学生音楽コンクール

吹奏楽部フルートパートの北畠奈緒さんが全日本学生音楽
コンクール全国大会フルート部門で見事1位を勝ち取り、
クラブでもOB会でも大きな歓声と拍手が沸き起こりました。

北畠さんの健闘に学校でも全校生を集めてコルベ講堂で表彰式と
記念演奏がありました。(平成22年2月4日)

第63回全日本学生音楽コンクール全国大会高校フルート部門で優勝した
2年生、北畠奈緒さんの表彰を行います。



全日本学生音楽コンクールは今から63年前に若手音楽家のためのプロへの
登竜門として開催され、これまでに数多くの世界的な音楽家を輩出してきました。
ピアニストでは左手のピアニスト、舘野泉さん、後のショパンコンクールでも活躍
されたこやまみちえさん、バイオリンの千住真理子さん、NHK交響楽団のコンサート
マスターだった徳永二男さんら、そうそうたる面々です。

北畠さんは中学1年生から吹奏楽部に所属、入部したその年からコンクールの
メンバーとして活躍してきました。

このコンクールでは昨年の9月10日11日に大阪のザ・フェニックスホールで
開かれた大阪大会の予選を通過、10月27日の大阪大会本選で第2位となり、
全国大会出場を決めました。さらに、11月26日横浜みなとみらいホールで開かれた
全国大会ではフルート曲としてはもっとも難しいと言われるフランスの現代音楽を
吹きこなし、一位となりました。審査員や評論家からはもっとも将来を期待できる
演奏家と新聞紙上でも紹介されましたし、NHKFMラジオでもそのすばらしい演奏が
流れました。今年の1月11日、ザ・フェニックスホールで開かれた受賞者記念
演奏会・表彰式では、一番大きな拍手を受けていました。これからも北畠さんの
活躍に期待したいと思います。

ではお聴きいただきましょう。モーツアルト作曲フルート協奏曲第2番第1楽章
「アレグロアペルト」ピアノ伴奏は吹奏楽部顧問、山田雄一郎先生です。

全国大会 高校フルート1位、仁川学院高・北畠奈緒さん /兵庫

 ◇「響き楽しみ緊張せず」

横浜市の横浜みなとみらい小ホールで26日開かれた第63回全日本学生
音楽コンクール全国大会(毎日新聞社主催、横浜市共催、ANA、島村楽器、
三菱商事協賛)のフルート部門高校の部で、仁川学院高2年、北畠奈緒さん
(17)=宝塚市中筋山手=が1位に輝いた。【鈴木朋行】

演奏を終えて着替えて出てきたところで結果を友人に知らされ「えっ」と言って
驚き、自分で掲示を確認。レッスンの先生と抱き合った。「ホールの音の響きを
楽しむくらい緊張しないで演奏できた。『入賞できたらいい』と思っていたぐらい
で、本当にびっくりした」と喜びを語った。

 練習の時からいいイメージを持って演奏することを心がけているが、今回も
その訓練が生きたという。小学校4年の時、音楽の教科書に載っていたフルート
の写真がかわいく見え、両親にねだって始めた。

 将来はプロのオーケストラの一員になりたいが、「まだまだ未熟。いろいろな
ことを学んで、人を心から癒やせるフルート奏者になりたい」と謙虚に語った。

毎日新聞 2009年11月28日 地方版

審査員の講評:
「高校の部の北畠奈緒はジョリベのリノスの歌という大曲をスケール大きく演奏し、
傑出した1位だった。」

山田君情報

 

昭和60年、62年と吹奏楽部の部長を歴任した山田篤彦君からメールがきました。懐かしい吹奏楽部の記憶です。


川学院のスタンド。懐かしいつりスカートの中学女子生徒の姿も見える
(1982年尼崎記念球場))


1982年夏の地区大会の新聞記事から


1984年の中学運動会クラブ対抗リレー選手

(左から小倉実、山田篤彦、浜崎永樹、小川周平)


1984年夏の地区大会の新聞記事から


1985年学院祭第2日目コルベ講堂ステージ


これも1985年のステージ

(岡崎充良くん中学1年生のときです)

吹奏楽部の練習風景

(2006年9月1日~3日 仁川学院)

楽器はなかなかすぐにはうまくならないが、積み重ね
ると、いつの間にか信じられないくらい上手になるもの。
仁川学院吹奏楽部員たちも学校のいろいろなところで
練習しています。調子っぱずれの音を温かく見守って
くれている関係者の皆様に感謝する次第です。


 夕方の廊下にて


 生徒たちだけで合奏もします


 あちこちで音が聞こえます


 指揮台を片付けていると、鐘楼が体育館に映っていた


ハート型は祝福されているようです


本番前の練習は力が入ります

いにしえの吹奏楽部とOBたち

いにしえの吹奏楽部の写真を発見!

この写真はおそらく1984年から85年にかけてのもので、コルベ講堂2階で吹いている、
それ以降の退部者が写っている、そろいのトレーナーを着ているところから、1984年度
卒業式ではないかと思われる。その頃の今では信じられないエピソードを紹介しようと思う。

1、クラリネットは全員がプラスチックである。木管のをまだ見たことがなくクラリネットと
言えばこれだと信じていた。
2、学校の楽器のホルンに直接イニシャルを彫りこんだ部員がいた。
3、チューニングを知らなかった。したことがなかった。
4、1年のほとんどが休みだった。もちろんコンクールも出ていなかった。
県や市への登録もしていない。
5、出席率が極めて悪く、10回連続で出席した部員に表彰状をあげていた。
しかし本番3日前からは誰も休まなかった。
6、練習以外での結束力は高かった。着ているトレーナーも生徒たちでデザインして作った。


竣工して一年経っていない講堂2階。
コンクリートが乾いていなかったので音響は最悪だった。

まあでもそれなりに楽しく、私も駆け出しの頃で無我夢中だったと思う。しかし、誰も指揮を見ていない・・・

 

吹奏楽部OB列伝
森さわ 武士(もりさわたけし)


合宿で水風船大会を企画し、びしょびしょになった部員たちと
OB全員を風呂に入れた。夏の合宿ならでは!

真中で笑っているのが森さわ武士君

「OB列伝」と名前を変えた今、トップに来る人はこの人しかいないであろう。昭和59年仁川学院
高等学校入学後、吹奏楽部に所属、部長を勤めるなど貢献度は生徒の頃から高く、また卒業
してからも彼を中心に他のOB会にはない独特の雰囲気の中心人物として現在に至っている。
このように書くと親分肌のように思われがちだが、決して「俺について来い」タイプではなく、
彼の発想の豊かさ、行動の早さ、人柄にみんなはただただ感動し、賛同しているのである。

卒業後10年以上も経ち、社会的地位の高いところにいながらも、いつまでも仁川学院
吹奏楽部を忘れず、気にかけてくれ、支援を惜しまない彼をOB、部員たちは敬愛して
いるのである。


タバコを吸うまねをして周りを驚かそうとしている若き日の森さわ君

彼の子供のような心、それと相反するすべてを達観した見識と行動。彼の人格は
吹奏楽部の今の自由な雰囲気を作ったと言える。


左端が森さわ君、吹奏楽部のゆかいな行事はすべて彼の発案である。

吹奏楽部OB列伝
土屋 啓二(つちやけいじ)


コンクールへの再挑戦で吹奏楽部は活動を再開した。それまでは人数が足りず、コンクールどころではなかったのである。吹奏楽コンクールの歴史を語るとき、忘れてはならないのが始めに「コンクールに出よう!」といった土屋啓二君のである。(1985年入部)彼は名門宝塚市立南ひばり中学校で活躍してきたフルーティストだったが、進学した当時の仁川学院高等学校吹奏楽部の現状を目の当たりにして、部員に目標を持たせるため、そして他の学校の演奏を聞いてレベルを上げるためにも是非、コンクールに出場しなければならない、と考えたのである。いろんな講習会や演奏会に部員を誘ってもなかなか乗ってこなかったのも大きな理由の一つだった。そこで野球の応援と文化祭、そして卒業式などの学校行事だけにとどまっていた吹奏楽部の部員たちの多くの反対を押し切り、顧問を説得して連盟に登録し、コンクールの申し込みをして1986年7月、ついに仁川学院吹奏楽部を高等学校B部門に登場させたのであった。結果は西阪神地区大会銅賞だったが、その直後に早くも翌年へ向けての目標をぶち上げ、自分が顧問とともに指導する立場となり、音合わせのしかた、練習のしかたなどを整備した。教則本や楽器など も顧問と相談してそろえていった。なかなか付いてこない部員たちを引っ張り、ほとんど彼一人が全パートの練習に付き合った。「毎日練習すること」「腹式呼吸をすること」「楽譜の通りに演奏すること」の金賞をとるための3つの条件は永く部室や音楽室に掲示され震災で校舎が倒壊するまで後輩たちに伝えられていった。そして、彼が卒業してからその教えは見事に実を結んだ。まさに彼の縦横無尽の活躍は、「仁川学院吹奏楽部復興の祖」といって差し支えないだろう。